これが正論、とかいう人には注意しよう -思考と嗜好について

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私たちの考えや思考、思想というものは、自分たちで思っているほど、事実に基づいた正確なものではありません。

 

今回は、大人になるについつい忘れてしまいがちな、しかし、当たり前のことについて、思い出してみたいと思います。

 

  

個々人の見る世界はすべて違う

 

簡単な例でいうと、は、ほかの多くの臓器と異なり、脳の一部が直接分化して形成された脳神経の一つです。

 

つまり、目で見たり、舌で味わったりした感じる感覚そのものが、その人の脳が知覚する世界そのものと言えます。

 

それでは、それらは地球上の人間すべてに共通するものでしょうか

 

当然、まったく違いますよね

 

人の味覚は千差万別。ある人には最高の料理であっても、別の人には美味しいと感じないかもしれないという事実は、素直に受け入れられと思います。

 

それは、どちらが正しいとか間違っているということではなくて、栄養学的に不十分な極端な偏食でない限り、その人の味覚の嗜好は尊重されるべきものです。

 

視覚については、言語化して共有しにくい点もあり、個々人で大きく異なることはなかなか認識しにくいことではありますが、自分のような凡人と、芸術家が見る世界はきっと異なったものなのだろうな、と思いますし、自分が美しいと感じる自然風景や古い町並み、都会の夜景といった風景に、まったく興味がなく、心を動かされない友人もおりますので、これまた個々人の嗜好が大きいということもわかります。

 

すべての情報は、脳で認識され、編集されている

 

このように、味覚、視覚に限らず、すべての情報は、脳にインプットされた後、個々の脳の特性、つまり、嗜好によって認識され価値観に基づき編集されたうえで、その個人の思考として成立しています。

 

したがって、私たちが、これが正しい、と思うことの多くは、美味しい、まずいのように自分にとっては絶対的な事実ではありますが、ほかの人にとっても正しいものかというと、そうではありません

 

客観性・再現性のある根拠を元にした論理の積み重ねを科学と呼びますが、(科学でさえ、意見が分かれることも多々あります。)それ以外の多くの意見は、個人の思考の集積にすぎません

 

これはとても当たり前のことではありますが、意外と大人になるほど、自分の思考を、自分の嗜好、つまり、たんなる好き嫌いから生まれたものととらえずに、絶対的、普遍的な価値観として、とらえてしまっていることを、忘れている人がとても多いように感じます。

 

それが、ネット社会にある、これが正論、論破、といった、他者排斥につながっているのは、大変不幸なことだと思います。

 

成長するとは、嗜好を広げていけること

 

大人になるにつれて、自分の成長のため、あるいは、他人との共感を得るためにも、こどもの時に食べられなかったものの美味しさに少しずつ気づけたり、退屈で古ぼけてみえていた京都の風景が、だんだん美しく感じるようになるように、嗜好の幅を広げていけることが、人生を豊かにするコツだ、ということを否定する人はあまりいないでしょう。

 

それと同じように、自分の思考、嗜好が、自分特有のものであり、異なる価値観(=嗜好)の人がいることを当たり前だと思い、ほかの人とはその違いがあることも当然だと認め、共有ができないにしても、他者に危害を与えない範囲で、その思考を持つ人もいてもいいかもね、くらいには、思考の許容度が広い人が多い方が、人生を楽に生きていける世界だと思います。

 

自分の好き嫌いの通りにならない世界に苛立つなんて、世界中の人の美味しいまずいを統一しようとするくらいきりがなくて、とてもとても辛いことです。

 

世界や他人に変わることを期待するのではなく、自分の思考の許容度を広げていく努力の方が、あなたが幸せになるには大切ですよ。

 

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